2009年10月 2日 (金)

275.第7部・あとがき――人生という名の気まぐれ

さて、またここでいったん区切り目をつける。もちろん、これまで同様、ひとまずの区切り目をつけるという意味だ。今回は、まえがき、あとがきを除いて、[Hot Side]8個、[Cool Side]27個で、合計35個で約17ヵ月を要した。主として第7部は、固有状態、交換子、ツイスター、スピノル、立体射影など数学・物理学の勉強を中心に書き連ねた。今回も第6部と同様、[Hot Side][Cool Side]の個数のバランスがとれていないが、とりあえずいろいろ気になったものを採り上げてみた。

それにしても、つくづく立体射影というものは面白い。人間の視覚というものに関して、視座と視界空間というものの関係を想像してしまう。


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 私たちが見ている視界空間というものは、実は一種の平面(正確には超平面)のようなものが4次元目の方向軸を用いて折り曲げられているものではなかろうか。そして、この4次元目の方向軸こそが、私たちそれぞれの視線であり、個々人の物の見方というわけである。もしそれを「主観」と呼ぶのだとしたら、「客観」を持つためには、さらにもう1次元拡張して4次元超平面を折り曲げなくてはいけないのかもしれない。

例えば、人間が死の縁で見るという人生の振り返りというのは、4次元超平面を折り曲げるときの、5次元目の方向軸なのではないだろうかと思う。そう思うのは、振り返ってみるという視点が「客観」的なものを要請するからである。そうした「客観」的な視点で、人生のターニング・ポイントを眺めてみると、また違ったものが見えてくるだろうか。人生が個人にとって気まぐれなものではなく、全体的に関係的に必然的なものに見えてくるだろうか。

そんな想像(あるいは妄想?)を抱きながら、この拙い第7部を終えることにしよう。

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2009年10月 1日 (木)

274.[Cool Side] 3次元鞍形面と立体射影


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【参考文献】

・戸田盛和『物理学30講シリーズ10・宇宙と素粒子30講』(朝倉書店)

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273.[Cool Side] 3次元球面と立体射影


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【参考文献】

・戸田盛和『物理学30講シリーズ10・宇宙と素粒子30講』(朝倉書店)

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2009年9月30日 (水)

272.[Cool Side] 2次元鞍形面と立体射影


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【参考文献】

・戸田盛和『物理学30講シリーズ10・宇宙と素粒子30講』(朝倉書店)

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271.[Cool Side] 2次元球面と立体射影


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【参考文献】

・戸田盛和『物理学30講シリーズ10・宇宙と素粒子30講』(朝倉書店)

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2009年6月 2日 (火)

270.[Cool Side] ベルトのトリックと四元数

幅のある細長いベルトを用意し、表は白、裏は黒に色分けされているとする。ベルトの端には、表裏の区別のできるカードをつりさげておき、カードの表は白、裏は黒とする。

まず、カードを左向きに360度回転して、次の図のbの状況を考える。これから出発して、cのように、ベルトを動かしてカードの下をくぐらせる。結果として、dの状況が得られる。これも、やはり、360度ひねられたベルトであるが、ねじれの向きが反対になっていることに注意しよう。はじめのベルトが、左向きにねじれていたのに対し、今度のベルトは、右向きにねじれている。このことは、カードの下をくぐらせる操作で、720度変わったことを意味する。


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ベルトがカードの下をくぐる1回の操作で、ねじれが
720度変わったということは、次の図のように、2回ねじったねじったベルトから出発して、カードの下をくぐらせると、ねじれのないまっすぐなベルトが得られることを意味している。


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さて、
3次元空間の座標軸、x軸、y軸、z軸を回転軸として反時計回りに180度回す回転運動を考え、これらをそれぞれI, J, Kとおく。この3種類によって決まる四元数を求めてみると、偏角は90度で、それぞれi, j, kとなる。180度のかわりに540度を考えても回転移動としては同じである。ところが、540度を代入して計算してみると、偏角は270度で、それぞれ-i, j, kとなって符号が反対になってしまう。これがメビウスの帯に見られるような二価性の現象である。回転に対する四元数を求めるためには、その回転を変換として見るだけでなく、回転角0度から出発して、どのような経路をへてその変換に至ったのかという情報までこめて考えなければならない。それがSO(3)の道を指定するということである。

四元数i, j, kについてx,軸、y軸、z軸を回転軸とする球の内側にあるベルトつきの球の180度回転を考えて、次の図のようなベルトによる表示が得られる。


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同じようにして、
360度回転、720度回転を次の図のようにベルトつきで図示してみよう。対応する四元数は、それぞれ-1,1となる。720度回転が1に対応することは、先に説明したベルトのトリックと次のように関係している。2回ひねりに対応するベルトは、ベルトをひっぱって内側の球の下をくぐらせることにより、ねじれのないまっすぐなベルトに変形できる。このことは、720度回転のベルトが本質的に0度回転のベルトと同じであることを意味している。一方、-1に対応する360度回転のベルトについては、このような変形が不可能であることは、先のベルトのトリックで説明したとおりである。これは左回転でも右回転でも同じであることに注意しよう。


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回転
I,J,Kを変換とみると、関係式

が成立している。ここで積は回転の合成を示す。たとえば、IJはまずy軸中心に180度回転してからx軸中心に180度回転することを表している。またeは恒等変換を示す。この場合には、e,I,J,K4つで群となり、「クラインの四元群」とよばれている。

これをベルトつきで考えてみよう。まず、上の図のi,j,kの図のz軸を回転軸とする180度の回転を2回合成すると、上の図の-1の図のような360度回転のベルトが得られる。これが-1に対応することは、四元数の演算規則

を説明している。回転軸をx軸,y軸にとると、次の図のように

が説明される。いずれも、360度の回転のベルトが-1に対応することを用いている。


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四元数の演算規則をこのような方法で図示したものが次の図である。それぞれ、

に対応している。図の読み方に関して、説明しておこう。四元数の積について、対応する回転移動は、右側の方から順に行なっていくとしている。たとえば、一番上の図では、まずjの回転を施してから、iの回転を行なっている。結果として得られるベルトは、左回りの540度回転で、ベルトのトリックによって、これは右回りの180度回転つまりkを表すベルトと同じである。


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【参考文献】

・河野俊丈『アウト・オブ・コース4  組ひもの数理』(遊星社)

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2009年4月20日 (月)

269.[Hot Side] 粒の量子論と場の量子論 (2)

吉田伸夫氏の『光の場、電子の場』には、場の量子論に関してこのようなことが書かれている。

《例えば、光は常に光速で伝播し、止まることなどあり得ない。これは、いかにも波に相応しい振舞いである。ところが、電子は、運動を妨げるような電圧を加えることによって、その場に静止させることができる。波の動きが止められることは、どうにも不思議でに感じられるだろう。また、光は電子から放出されたり、逆に電子に吸収されたりと生成消滅を繰り返しており、実体を持たない波動と見なしても違和感はないが、電子は他の何かに吸収されて消えてしまうことはない。要するに、電子は、どこからどう見ても粒子なのだ。電子が波動的に振舞う理由を納得のいくように説明することは、きわめて難しい。》

この本の中で、量子場の理論というものの意味合いがどんなものであるか、こんなふうに述べられている。

《パウリらによる量子場の理論は、光だけでなく、電子の存在をも場の振動に還元してしまうものである。この理論では、場があらゆる物理現象の担い手であり、ただ一つの物理的実在と呼ぶことさえ許される。》

《拡がりを持つもの(弦、膜、媒質、あるいはそれ以外の何か)が量子論的な振動を行なうと、粒子・波動の二重性を示す現象が生じる――これが、量子場の理論の基本的な発想である。》

そして、量子場の理論の核心とも言うべき特徴は、以下の箇所において述べられている。

《特に重要なのは、ヨルダンとクラインが、場に関する量子条件を具体的に書き表した点である。これは、ディラックにもできなかったことであり、量子場の理論に向けての大きな前進となった。

ディラックが示したように、粒子に関する量子条件は、位置をx、運動量をpと書いたとき、q数としての関係式「pxxph2πi」という形で表される。ところが、場はあらゆる場所と時刻にわたって存在しているので、粒子の場合よりも量子条件はずっと複雑になる。第5章で弦の量子論を説明した際に示したように、場を互いに連結されたたくさんのバネの集まり」としてイメージすることにしよう。電子の場Ψ(t,x)は、「場所xにあるバネが、時刻tにΨだけ伸びている」というふうに考えることができる。バネに取り付けられたおもりの場合、量子条件「pxxph2πi」に現れるxは、おもりの位置が平衡点からxだけずれ、その結果としてバネがxだけ伸びていることを表している。とすると、電子の場の量子条件は、「pxxph2πi」のxの代わりにΨを用いた式になるはずである。

ヨルダンとクラインは、さらにΨ(t,x)が満たす波動方程式の形から、運動量pに相当する量Π(t,x)を導き出した。電子の場を量子論的に扱うときには、量子条件の式で、

位置 x→Ψ(t,x)

運動量p→Π(t,x)

という置き換えを行わなければならない。最終的にヨルダンとクラインが求めた量子条件は、次のような形になっている。

〈Π(t,x)Ψ(t,x)-Ψ(t,x)Π(t,x)〉=h2πi……①

左辺を括弧でくくったのは、xyのそれぞれについて同じ微小領域で平均を取ることを意味している。平均を取るのは、大きさが無限小で個数が無限大のバネを扱うことによる困難を回避するための便法である。

ヨルダンとクラインの量子条件①で注目すべきは、時刻tと場所x(あるいはy)がペアで現れている点である。この式は「時間と空間が同じような形で現れる」という相対論の要請を満たしているのだ。ディラックが提案した「pxxph2πi」という量子条件は、粒子の位置xだけが現れて時刻tが含まれないという点で、相対論とは反りが合わなかった。そもそも、「粒子がある位置xに存在する」という命題は、粒子の状態を限定する明確な意味を持つが、「粒子がある時刻tに存在する」という命題はほとんど意味を持たないので、粒子概念にこだわっている限り、位置と時刻をペアで扱う相対論的な量子条件を導くことはできない。粒子概念を捨て、場の概念を採用することによって、初めて相対論的な量子条件が得られるのである。》

こうして理論化された場の量子論は、その後、パウリによって「場」と「波動関数」が明確に区別しなければならないことが主張されるなど、整備され、ついに電磁気学の量子論というべき「量子電磁気学」が完成した。パウリは、ディラックと異なり、波動関数とは別にダイナミックな振動を伝える電子の場を想定し、これを量子論的なq数とした。すなわち、ディラック流の立場では、電子という粒子の存在を理論の前提にしなければならなかったのに対して、パウリ流の立場では、電子とは場の振動が粒子のようにふるまうことだと解釈したのである。この差異は決定的とも言える。つまり、電子は場の派生物というわけである。

【参考文献】

・吉田伸夫『新潮選書 光の場、電子の海 量子場理論への道』(新潮社)

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2009年2月 8日 (日)

268.[Hot Side] 粒の量子論と場の量子論 (1)

私のような物理学の素人にとって、量子力学や素粒子物理学などの現代物理学の、旨み成分にたどり着くのはなかなか難しいものだ。まず第一に、素人では、「粒の量子論」と「場の量子論」(波の量子論)の違いがわからない。どちらもほとんど同じで本質的にたいした違いはないかのように考えてしまう。ところがこれは大変な違いなのである。

「量子論」関連の事象を、ついうっかり「量子力学では」などと安易に語ってしまう(私も過去には、というか、つい最近まで、そういう表現をしてしまったりすることが多々あった)が、「量子力学」とは「粒の量子論」である。簡単に言えば、「電子」という、それまで確固とした実在・実体として取り扱われてきた粒子の中の粒子に、波動性を持ち込んだものであり、これによって電磁場内部での電子の振る舞いが計算できるようになったことが大きい。

ところが、こうした「粒の量子論」では、電子の運動によって揺り動かされる電磁場の変動が周囲に伝播して、他の電子に作用を及ぼすような過程を説明できない。そうした過程を説明するには「場の量子論」が必要になってくる。

一般雑学書を読んでいると、「前期量子論」と「量子力学」的なことを語るだけで「量子論」のすべてを語っているように捉えかねないような導入の仕方をし、そのまま「場の量子論」の延長線上にある「素粒子物理学」の一大到達点とも言える「標準模型」へと一気に展開してしまう説明のものが見受けられるが、それでは素人には、「粒の量子論」である「量子力学」の印象しかほとんど残らない。

「粒の量子論」である量子力学は、従来の粒子性をベースとした力学の域を抜け切れていない部分がある。特に、アインシュタインの光量子論の導入から始まる「前期量子論」の説明の後では、素人は安易な想定としての「光子=光の粒子」という印象をなかなか払拭できない。しかも、その後「素「粒子」」の説明が始まるのだから、相変わらず、「粒子」の積み重ねでこの物質世界が構築されるという短絡的な物質的世界観が拭えない。「粒子」のボトムアップでは「波動」性は生み出せない、というのにである。

この矛盾性をどうにかするために、「場の量子論」が生まれたと言える。意外と、「場の量子論」の一端を理解する上でも、以下のベルクソンから引き継がれたドゥルーズの「流れ」に対する考え方は重要かもしれない。

「では、潜在的な多様体が、否定性にも可能性にもかかわらないということは、どのようなことなのだろうか。ベルクソンに即してみていこう。

生成とは、新たなるものが生み出されていく流れである。流れをそのまま捉えようとするならば、それは分断されてはならない。なぜならばそのときに、流れはすでに流れではなくなるからである。ここで重要なのは、流れが流れではない何かから構成されている、という論理をもち込まないことである。それはどのようになしうるのか。

ベルクソンはこう考える。まず、流れを分断できるという発想は、流れが等質的な単位に区分可能であり、なおかつこうした単位を見いだすことにより、いっそう正確に記述できることを前提にしている。つまり流れとは、分断した基本単位の側から再構成できると考えられるのである。だが、そこでは流れは、否定的なあり方にさらされてしまう。これでは、流れのなかの流れない単位が存在の原型であり、流れはその劣った姿であるとみなされかねない。

ベルクソンは、単位の集積から流れを再構成するこうした発想は、時間を単位の連鎖に解消する、量に基づいた思考であると批判する。そこでは、時間の予測可能な展開と、それに依拠した決定論的な世界の理解が、幅を利かせることになる(たとえば、卵の分化を、そこに組み込まれたプログラムがカチカチと展開されることだと考えるように)。しかし、それでは、新たなるものが発生してくる、生成にまつわる事情はとり逃される。つまり流れのリアルさを形成する、その質的な側面が、議論からこぼれ落ちてしまうことになる。

ベルクソンは、流れをあくまで肯定的に捉えていく。だから、流れを等質的な単位に解消し、そこから流れを再構成するような、生成の否定的な理解をとるわけにはいかない。そこでもちだされてくるのが、異質性に基づく多様体の論理である。」

(檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』p.29p.30

この「等質的な単位」が、物理学では量子条件(あるいは量子化条件)の単位とも言うべき「光子」1個に相当するような気がする。

【参考文献】

・吉田伸夫『新潮選書 光の場、電子の海 量子場理論への道』(新潮社)

・檜垣立哉『シリーズ・哲学のエッセンス ドゥルーズ 解けない問いを生きる』(NHK出版)

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2009年1月20日 (火)

267.[Cool Side] 高次元のスピノルとフェルミ粒子

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【参考文献】

・窪田高弘『SGCライブラリ66  物理のためのリー群とリー代数』(サイエンス社)

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2009年1月15日 (木)

266.[Cool Side] 高次元のスピノル

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【参考文献】

・窪田高弘『SGCライブラリ66  物理のためのリー群とリー代数』(サイエンス社)

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